感情の墓場

一度感情を言葉にしてしまえば、後に残るは言葉だけ

其の躰の真名は「冠位指定」其の刃の忌名は「剣豪七番勝負」

英霊剣豪七番勝負を経て感じたことを書き連ねました。プレイ済みを想定していますのでご注意ください

 

 

 反転する鬼の血

どうしてもここから先の話をする上でどうしても触れなければならない前提条件なので詳しく無い分野ですがあらましを提示したいと思います。

始まりのFateFate/stay night奈須きのこが青春に溜め込んだ数々の物語やTRPG等の様々な体験が込めて作られていることは作品及び各種インタビューなどで繰り返し語られていることでありますが、その中の1つに山田風太郎原作柳生十兵衛三部作の1つ「魔界転生」があります。死した傑物を魔に堕とし再び現世に呼び戻す形式はサーヴァントの召喚周りに影響を与えているように思われます。そうした部分含め伝奇の血を受けてFateは生を受けているわけであり、その辺の詳しいところはきっと来月刊行されるこちらの書籍にも載っていると思われますので是非お買上げください

 

TYPE-MOONの軌跡 (星海社新書)

TYPE-MOONの軌跡 (星海社新書)

 

 さて(当記事の主題的に語弊がある事を承知でこう表現しますが)きのこ先生が魔界転生をやろうとして生まれたのがFateとするならば魔界転生Fateをやろうとしたのが今回FGOにて実装された『英霊剣豪七番勝負』でありましょう。今回出てきたアーチャーインフェルノ巴御前の例に倣って言うとすれば

FGOという躰に英霊剣豪の宿業を植え付けることでFateに流れる伝奇の血に従って先祖返りを起こした」

という言い方が出来るのではないでしょうか。

物語全体もかなり魔界転生のアウトラインをなぞっていると感じるのですが個々の構成に関しまして役柄を重複させる所や綺麗に反転させている所など、残念ながら古い方の実写映画版しか見ておらず石川賢武蔵伝しか知らない私では指摘しきれない所もございますのでその辺りは専門家の方に投げたいと思います。

宿業両断

大事な所を投げてばかりな気もしますが…本題はここからです。

 今回の話、オマージュに徹し過ぎでは?と考える方もいると思われますが、まず注目して頂きたい特級の異物が存在しています。衛宮士郎の体を借り受けて現界した千子村正です(映画版には刀匠が存在するのでまあ見方によってはこれも同じオマージュの一端と言えますが)初期から関わり、事態の根本的な幕引きを行う抑止からの遣いという大変重要な役どころであります。

  これと並べて考えて頂きたいのは元ネタにも存在し、黒幕として終盤に登場したある意味最も異物感の少ない人と言えるかもしれません天草四郎時貞です。武蔵と同じく数多の世界を渡り様々な可能性の世界を眺め今回の事件を起こす境地にまで至ったカルデアのものとは明確に違う天草です。

 

 

 これより先はいささかメタ的な読みが入ります。剣豪は構造として村正を終点(起点)とした2つの流れがあるのではないか、ということです。

  巴御前を例に取るまでもなく、型月作品において紅赤朱や起源覚醒者といった「戻りすぎてしまった人達」は個人の人格を塗りつぶされ、大本の方向性に支配されてしまいます。これを剣豪に当てはめるならば

 

「先祖返りによって剣豪・伝奇作品の方向に支配されFateとしての形を失う」

 

ということになります。これがまず1つ目、過去から流れです。恐らく今回が「魔界転生すぎて釈然としない」方の一部はここに燻っておられるのではないでしょうか。

  2つ目は未来からの流れです。天草四郎はご存知の通り外伝であるFate/Apocryphaの代表的な登場人物でもあります。並行世界を渡って数多の可能性を携えた天草四郎

 

「派生していくFate外伝の象徴」

 

として捉えることは出来ないでしょうか。それが今回悪性に転じて他世界、言い換えれば他作を呪い、冒しに来るわけです。 

 ここで先程終点と称した千子村正は何を象徴するかと考えますと

Fate

です。正確にはFate/stya nightの象徴です。まんまですね。疑似サーヴァントとは言え「視点である以外の主人公は極力描かない」としてアーネンエルベにさえ士郎と志貴を出さなかった姿勢を考えるとこのくらい大きく象徴として取ってもいいと思いませんか。ダメですか。以上三つの流れを以て今回の剣豪の結末を見ると

 

「過去と未来からやってくる宿業を大本のFateが断ち切る」

 

という風に捉えることも出来るわけです。ともすれば積み上げた過去や広がる未来の否定かと考えてしまうことも出来ると思いますが剣豪を取り巻く状況について今一度、見渡して見て下さい。剣豪と劇場版Fateは同日の開始という点です。もう一度まとめましょう。千子村正がこの物語の幕引きを担当するということは

 

「物語として先祖返りしすぎた剣豪、FGO含み数多の可能性にみちたFate、それらを一度リセットして『始まりのFate』へと立ち戻る宣言」

 

であるという風に私は感じました。武蔵は剣豪としての決着に至り、物語の終わりは村正が無限に積み上げた刀の中で遂に至った神域の剣によって果たされるのであります。

これにて

 

 

 

一切完勝

 

 

と、長々と書き連ねましたがこれらの読み筋あまりに荒唐無稽。意図された部分があったとしても果たして何割がその内にあるかといった感じです。無限と零の剣技についてやっている横で零に至る過去の積み重ねと無限に広がるFate世界という符号を熱に浮かされながら見てしまったのがきっかけの考察になります。もっと自然な読み方をするならHFと同日配信は商業的都合、天草はただの元ネタ通りのロール、士郎はただのファンサとい感じでしょうか。ですが私はそうであってもいいと思います。というかそっちの方が面白くありませんか?かたや別の制作ラインで作られた物、かたやライターのただの都合が積み上がってシンクロニシティを起こし、ここまで深読みできちゃう物語を積み上げてしまったとしたら。

それは物語自身の持っている意志の成せるものではないでしょうか。